また指輪をなくした

私はやはり、アクセサリーは付けられないのだろうな

前回は、なんかお金がないのにおしゃれになりたくて、そして気に入ったのがあったというのもあって元町の輸入雑貨の店で3000円で買った指輪を、つけたその日になくした。

一回だけごはんに行った人と島に一緒に旅に行ったときだった。冷静に考えると多分結構突飛なんだろうなそれって。その1年前くらいにも、インターンの面接で少しだけ喋った人と沖縄に行った。多分私が、人と関係を長く続けることができない短期集中型の人間関係を持つ傾向が反映されているのだろう。一緒に過ごしているとある程度の時間で自分の浅さが人にばれてしまうが、一瞬はおもしろがってもらえる、みたいな。それは自分が他者に対して向ける姿勢も同様である、というか、自分自身がそうやって人をジャッジして、それをパスする人パスするときにだけその人と関わる時間を持つ、というような人間関係を常としてきたからである。

沖縄のときは、最終日にどうしてもひとりでその場にいたくなって解散した。なんて自分勝手なんだろう。でもその後もその人は事あるごとに連絡をくれたりSNSで反応してくれたりする。

それに、長く関わりを持ってくれている友人たちもいる。その人達に対して私はジャッジの目を向けるというよりは、これまで関わってきたということの絆みたいなものをよすがに、一生関わりつづけるし気にかけつづけるだろうな、という気持ちでいる。

今回の指輪は、1年くらいは持てた気がする。でも付けたのは数回。京都から、大阪の実家にそろそろ帰ろうと烏丸駅までの道を歩きながら髪の毛をくくりなおしていたらひっかかって、金属の、大きめのあみ目のようになっている排水溝の暗闇にちゃぷっと消えていったのを見た。

こうして私が指輪をなくす原因として考えられるのは、大きいということと、ひっかかりやすいデザインであるということだ。これまでの私の指輪は、いずれもその両方の特徴を持っている。でも小さいと指が圧迫されてしんどい。だから、すこしゆるめの指にはめる。

シンプルなリングとかであれば、またちがうのかもしれない。こないだその元町の雑貨屋に行ったとき、前に買った指輪がまた売られていた。一点もののアンティークのような手作りのような顔をしていたが、そういうデザインの商品として売られているものなんだろう(手作り否かはわからないが)。買いなおすということはしなかった。1週間ほど前に奈良でたまたま通りがかったフリーマーケットでは200円のごつい金属の指輪を買った。これはまだなくしていない。でも大きくて、とげとげしている。

汚れと洗いの関連性(手足)

洗うところと、汚れているところというのは必ずしも関係あるのだろうか

今日中国の農村についての本を読んでいて、人が農村の一家にお世話になるときの夜の様子について、「当時はお風呂に入るという習慣がなかったので、手足をお湯で洗って寝た」と書かれていた。

お風呂に入るという習慣はないが手足は洗う、というのはどういうことだろうか。

手足は日中の活動によって特に汚れているところなのか?

冬に水しかシャワーが出ない環境で少しだけ過ごしていたとき、毎日お風呂に入ると寒さで体力がなくなるので4日に1回ほど銭湯に連れてってもらって、他の日は薪ストーブに置いたやかんで沸かしたお湯で足湯をしたらすごく綺麗になった気がしてすっと寝られた。でも、足は靴下をはいているし、もっと脇とか陰部とか匂いを発しそうな部分というのは他にある。でも足を洗う、というのはどういうことかなあ。 地面や外の世界との関わりのパーツ、としての手足?